インドにおけるイスラム王朝 — 皇帝アクバルの残したもの

インド

前にもちょっと触れましたが。。。

今回、デリーとアーグラを訪れて気がついたのが、北インドにおいてはイスラム王朝による統治がものすごく長かったという事実。

北インドでは10世紀の終盤からイスラム系の王朝の侵入がたびたび起こるようになり、インドにおける初めてのイスラム王朝がデリーに設立されたのが1206年。

その後、数々のイスラム王朝が続き、インドにおける最後のイスラム王朝となったムガル帝国が滅亡したのが1858年。

要するに、北インドにおいては約650年もの間イスラム系の王朝が続いたというわけです。

インド = ヒンドゥー教の国 という図式が頭に染み付いていた私。

デリーとアーグラでは観光名所の殆どがイスラム教のものであることに何故?と初めは疑問を持ったのですが、デリーとアーグラというのは、13世紀初頭から19世紀中頃まで続いた数々のイスラム王朝の首都となっていた町なので、歴史的建造物がイスラム教のものであることは当然といえば当然ですよね。

でもね、ここでまた疑問に思ったのが、こんなに長い間イスラム王朝が続いた北インドにおいても、現在の人口の約8割はヒンドゥー教徒であるという事実。

もちろん、ムガル帝国滅亡後、イギリスの植民地となったインド帝国が、インドとパキスタンに分離して独立した時点で、イスラム教徒→パキスタンへ、ヒンドゥー教徒→インドへ、という人口の移動があったとは思いますが、それにしても長年続いたイスラム王朝の支配下で、ヒンドゥー教徒がイスラムに改宗することなくヒンドゥー教徒のままでいることができたのは、たぶんこの人のおかげじゃないかな?と思うのです。

アクバル皇帝 (Photo by user:Muntasir du – Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=923815)

ムガル帝国の首都をデリーからアーグラに移し、アーグラ城塞を築いた皇帝です。

ムガル帝国は、アクバルの時代以降領土を大きく拡大し、多くの非イスラム教徒を抱えることになります。

そんな中、アクバルは、それまで異教徒に課せられていた税金を廃止したり、ヒンドゥー教徒を要職に登用したり、イスラム様式とヒンドゥー様式の双方を取り入れた建物を建てたりと、他宗教に対して非常に寛容な方針をとります。

先日のブログで紹介したアーグラ城塞のジャハーンギール殿も、非常にアクバルらしいヒンドゥー様式とイスラム様式が取り入れられた建築物でしたが、それよりも更にアクバルらしさを感じたのが、こちら。

アーグラ郊外にあるファテープル・シークリーです。

アクバルは、アーグラ城塞を築いた後に、 アーグラ郊外に、このファテープル・シークリーという新しい都を建設し、1574年からの約10年間に渡って、この都に居住しました。

このファテープル・シークリーの宮廷地区には、イスラム様式の典型であるドーム型の屋根やアーチなどは殆ど見られません。

インドの伝統的なヒンドゥー様式を取り入れたものらしいのですが、ヒンドゥー建築に馴染みのない私にとっては、傘のようなチャトリさえなければ、まるで木造の仏教建築のように見えます。

木のように見えますが、柱も庇も梁も、全て赤いサンドストーンで出来ています。

こちらは、ディーワーネ・ハースと呼ばれる内謁殿。

建物の内部中央には、美しい彫刻を施した巨大な柱があり、その上には十字のブリッジが架かっています。

このブリッジの交差部分にアクバルが腰掛け、階下で様々な議論が行われるのを見ていたんだそうです。

アクバルは、イスラム教とヒンドゥー教だけではなく、仏教やキリスト教など様々な神学にも興味を持ち、宗教の融合を理想としていました。

実際、アクバルには、ヒンドゥー教徒の夫人、ゴア出身のキリスト教徒の夫人、イスラム教徒の夫人、がいたそうで(アクバルはムスリムですから一夫多妻制です)、ファテープル・シークリーの中にも、それぞれの夫人用に、様々な建築様式を取り入れた建物があって、面白かったです。

アクバルは、このファテープル・シークリーをわずか10年程で放棄して、ラホール(現パキスタン)に移ってしまいます。 ラホールに移った理由はよくわかっていないそうですが、水不足が原因だったのではないかと言われているようです。 そして、最終的には、またアーグラのアーグラ城へと戻ることになります。

アーグラ城のほうは、第5代皇帝のシャー・ジャハーンが白い大理石を使って改築を加えたため、シャー・ジャハーン色がかなり加わっていますが、こちらのファテープル・シークリーは、アクバルの色がそのまま残っていて、まるで時が止まったような雰囲気がするところが魅力です。

インドのイスラム王朝において、他宗教を受け入れる寛容な宗教政策とイスラム・ヒンドゥー文化の融合を実現したアクバル。 この方針は、孫の第5代皇帝シャー・ジャハーンまで続きました。

ところが、シャー・ジャハーンの後を継いだ第6代皇帝は、曽祖父のアクバルの時代からの方針とは打って変わって、保守的な宗教政策をとるようになり、イスラム教以外の宗教の弾圧を行うようになりました。 その結果、異教徒の激しい反乱が各地で頻発するようになり、ムガル帝国は次第に衰退していったわけです。

ムガル帝国が栄えたのは、寛容な宗教政策を築いたアクバルのおかげと言っても過言ではないかもしれませんね。

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